私の相場人生

私の相場生活はチューリッヒに始まる。いきなりスイス銀行外国為替貴金属部のトレーディングルームに配属された。チューリッヒでは銀座4丁目にあたるパラデプラッツに面した9階にあった。
いきなり円換算で10億円ほどのポジションを持たされた。「まずは、損切3年」と言われた。相場など理屈ではない。実戦あるのみ。一橋大経済学部卒など学歴など全く関係ない。リスク管理やコンプラに縛られる今のトレーダーとは正反対で、とにかくリスク取ってポジションを持て、とドヤサレ続けた。ポジション持たずにウロウロしていると怠け者扱いされた。2年ほどで、どうやら、損切が自然に出来るようになった。そこから、鰻調理人でいえば、串打ち3年、裂き8年、焼き一生のキャリアが始まったのだ。
損切の次は、利食い。これが苦労した。己の欲との闘いだ。
5年かかって、どうやら、滞りなく売買を執行できるまでに成長した。
トレーディング・ルームでは連日「喧嘩腰」だった。スイス人、中国人、中東インド系、アメリカ人などのトレーダーと渡り合う日々だ。実は筆者は若い頃に米国人女性、それも我がままいっぱい育てられた娘と同棲したことがある。毎日、英語で喧嘩の日々であった。そのときは、なんと生意気な女子か。我は大和男子なるぞ、と粋がったが、この喧嘩英語が後日トレーディングで大いに役立ったのだ。心の中で、その米人女子に「ありがとう!」と叫んだものだ。但し、私生活では、妻は絶対、日本女子と決めた。
チューリッヒで一応一人前のトレーダーとなったら、次は、ニューヨーク勤務を命ぜられた。そしてニューヨークに着任したら、いきなり、金・原油の商品取引所(NYMEX)の場立ちに出向させられた。これが、後年、金に深入りするキッカケになったのだ。
殺気立つフロアーは肉弾戦だった。スニーカー着用がルール。埃っぽくていきなり慢性鼻炎になった。体格がか細い筆者など、ウロウロしていると、アメフト選手みたいな米国人フロアートレーダーにタックルで吹っ飛ばされてしまう。実際に、2メートルほどぶっ飛ばされたことがあった。さすがに相手が悪いと思ったのか謝りに来た。その男がまさか生涯の友となるなど、思いも及ばなかった。聞けば、テキサスの大牧場の息子でハーバート卒。自己資産で自らリスクをとり、フロアーで売り方、買い方に廻る「ローカル」という存在だ。市場流動性維持のためには欠かせない存在だ。若干30歳そこそこで大成功をおさめ、高級外車3台、マンハッタンの高級マンションに、毎晩美人のガールフレンド3人が入れ替わり出入りする。これがアメリカン・ドリームだと思った。自分もそうなりたいと心に誓った。
米国証券取引所(NYSE)フロアーにも出向した。
シカゴではカーギルという穀物系商社でトレーニーとして働いた。
そこで、プロフェッショナルなスペキュレーター(投機家)の存在を知った。仲良くなったスペキュレーターの自宅に招待された。子供たちが3人。授業参観で親の職業を自ら語るときには、胸張って「スペキュレーター」と自己紹介するのだそうだ。農家は3月に種植えして、9月に収穫する。3月の時点で、栽培する作物の売値が確定できれば農家経営は安定する。そこで、スペキュレーターが自己リスクで買い手に廻ることで、立派に社会的責任を果たしているのだ。日本流の怪しい「投機家」しか知らなかった私は、これぞ商品先物の原点と感じ入った。
その後、株や債券でも同様の経験を積み、得難い体験をさせてもらったと思っている。後にも先にも、日本人として、本当の意味でフロアートレーダーとしてNYやシカゴのピットを駆け巡り、カラダで相場を体験できたのは、私だけだろう。
今回のコロナ騒動を機に、最後まで残ったNYSEのフロアーも多分閉鎖されることになりそうだ。
相場の修羅場を潜り抜けることで、真のマーケットの神髄を体験させてもらったことには本当に感謝している。
おかげ様でコロナに激動するマーケットにもひるむことなく、対峙できている。まさに人類未体験ゾーンゆえ、チャレンジ精神を掻き立てられているところだ。